突き抜け方が足りない:『あじーる』の倉井香矛哉さんの文章を読んで

あじーる』なる同人誌を購入した。同人誌とは言ってもエロ漫画が載っているやつではなく、文学系のものである。


文芸に対する興味はほとんど失せていたのであるが、twitterのフォロアーである倉井香矛哉(くらいかむや)さんの「MtFレズビアン(自認)ですけど男子寮に三年間住んでみた」という文章のタイトルに引かれて購入することにしたのである。


MtFレズビアン」と言ってもなんのことだかわからない人も多いと思うが、「男だけれどレズビアンを名乗っている」と言えばそのぶっ飛び方、突き抜け方がわかるであろう。より正確に記述すると「恋愛対象が女性である男だが、本人は心が女だと言っているのでレズビアン」ということになる。


だがしかし、結論から言うと、文章の内容はとても残念だった。


それは決して痛いとか香ばしいというようなことではない。痛さや香ばしさなら僕のほうが上である自信がある。むしろ、まだまだ突き抜け方が足りないのである。もっともっとぶっ飛ばして良いと思うのである。僕が感じたのは、突き抜け方が中途半端であるがゆえの残念さである。


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倉井さんは子供のころから「ボーイッシュな女の子に感情移入する」ことが多かったという。そうしたボーイッシュな女の子は「そのようになりたい羨望の対象であって、まちがっても性的な何かをかきたてられるものではない」ものであったという。また、東京に出てきて男子寮に入るときにはそこから始まる自身の生活を「姫君が男子として育てられる」というような文学的なモチーフをイメージしたという。


体は男だが男のような女になりたかったという人がいてよいと思う。でも、それがはたして男性のなかに潜む女性的な一面であるのかどうかというのはもう少し仔細に検討されてよいと思う。


いや、俺が倉井さんのなかに見出すのは女性的な側面を持った男などというような枠組みなど比にならないようなすごいものであると思う。体は男だけど男のような女になりたかったってなんじゃいな。そこいらのオカマやオナベが裸足で逃げるレベルです。でも、俺は倉井さんのそういうところに期待をしているわけです。女性的な男性などと矮小化してはいけない。


それはともかく、倉井さんは男子寮での生活のなかで「化粧をするのに適した洗面所が備えつけられていないこと」であったり、寮の浴場が「なんとなく居心地が悪かった」ために誰もいない深夜を選んで入らなければならないというような不便を感じたという。そういった寮生活のなかで、当初想像していたような「姫君が男子として育てられる」というような文学的なモチーフは解体され、大学院での研究の行き詰まりもあって生活が荒んでいったという。


倉井さんはそのことを「男性として振る舞う主体を多数派として構成される共同体に所属する初めての経験」であり、その男子寮での生活を通じて「女性的な一面」に気づいたというのだけれど、どうしても違和感がぬぐえない。それは、男だけれど男のような女になりたかったという物語が吹き飛ぶ過程をどう捉えるかという問題でもある。


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倉井さんの家庭は、父親が仕事のためにほとんど家にいなかったという。倉井さんは母親と姉とともに生活をしていたという。倉井さん自身はそのなかで「いつのまにか女性的なメンタリティを内面化」したのではないかという。もちろんそのような面もあるだろう。


だが、女性が多い家庭で育ちながら自分が理想とする姿が男のような女であったのであるならば、倉井さんが目指していたのは実は男らしさであったとも考えられるのではないだろうか。


このような解釈に立てば、倉井さんの男子寮での生活は、女性ばかりの環境で理想とした男らしさがリアル男子に囲まれた生活のなかで吹っ飛んでしまったという話になる。


しかし僕は倉井さんはその文学的理想を大切にしたらよいと思うのである。そしてその理想を──文学的にであれリアルであれ──追求したらよいと思うのである。ありていに言えば、どうみても男らしい男だし身体的にも男だし女性を恋愛対象としてみているけれど「理想の男は?」と聞かれたときに「理想は男じゃなくて男のような女です」と胸を張って答えられるようなド変態を目指してほしいと思う。