発達障害をめぐる放言録(2) 発達障害者として生きる

問題行動としつけ

発達障害googleのニュース検索をしていたら、発達障害児に暴行を受けた女子生徒が中学や保護者を訴え、和解が成立、というニュースが目に留まった。学校や保護者は必要な指導を行っていなかったと認定されたそうです。
発達障害による問題行動が「しつけの問題ではない」という言葉は誤解されていると思う。普通のしつけで効き目が薄いのは障害のせいであって、親や教育者がしつけの悪さを責められるものではない。発達障害児には特性に応じたしつけの仕方がある、ということ。断じて「問題行動は個性でありしつけが必要ではない」という意味ではない。
米国の自閉症当事者であるテンプル・グランディン女史も、自閉症児の親は自閉症児にあまり期待せず教育しないようだがこれはよくない、というようなことを書いている。
ADHDだったと言われるトーマス・アルヴァ・エジソンについて語られるとき「(学校教育ではなくて)のびのび育てると良い」と言われると違和感がある。僕はエジソンが歴史に名を残せた理由は「母親がつきっきりで」教えたことにあると思っている。
エジソンの母親のように、学校教育すら拒絶して「つきっきりで」「子供の特性を見極めながら」子供を育てるのは生半可なことではないと思う。しかし「のびのびと育てる」という言葉はそうしたニュアンスを含まないうえ、自由放任と称した放置すらも包含する言葉だと思う。

児童生徒間のなかで

学校教育って生徒間にはなんら「立場の違い」がない。非常にフラットな関係。腕力で序列を作ることは禁じられるし、最近は学力で序列をつくることもない。そうするとコミュニケーション能力によって序列ができるから、発達障害者は勝者たりえない。
大学出るくらいまでに散々痛いことをやっておくことです。そうするとたとえ学校教育のなかで勝者たりえなくても、大人になってから役に立つ。
ちなみに僕はまだ痛いことばかりしています。
そういえば、団塊世代の元エリート官僚が書いた本を読んでいたら「サークル内での党派間の主導権争いが役所に入ってからの権力争いに役に立った」とか書いてあるのね。大学のサークルで学ぶのは楽しいおしゃべりのなかで空気を読む技術じゃないです。

「知識」まで精神科医に教えてもらわなくても…

 本屋でアスペルガー関係の本を読んでいた。言葉の裏が読めないのでキャッチセールスに騙されやすいから最初から話を聞かないほうがいいとか書いてあった。それはアスペ全然関係ないと思うけどね、と思う。
 悪徳商法の類は弁護士が監修した本がある。子供向けに分かりやすく書かれたものを小学生の頃に読んだ記憶がある。クーリングオフの説明とかもありました。知的能力が高ければそうしたものを理解できるんであって精神科医なんぞに言われるのは余計なお世話。

発達障害者にとって働きやすい職場は

知的能力の高い発達障害者に取って働きやすい環境とは何か、考えている。結論は日本では土地が狭くてひとりになれるスペースを大量に用意できないので働きやすい環境は整えられない。
日本における知的能力の高い発達障害者の労働は出版社がモデルになるかな。作家や漫画家の先生が自宅に個人事務所を構え、編集者という名の大企業の社員の担当者と密に連絡しあいながら働くという。
このモデルは出版業界だけでなくて(接客以外の業務なら)たいていの仕事で可能だと思うのね。

結婚・家族

結婚というのは知的能力の高い発達障害者にとって安息の地であったのかも知れない。妻が旦那を支えて伸ばす的な世界。僕の両親はそういうものを期待しているように思う。
しかし、まず何より僕には結婚どころか異性の恋人がいない。そして仮に相手がいるとしても現代のような家事分担を公平にすることが平等であるという価値観のもとではそのようなことは期待できない。
伝統的な家制度に戻せと言うのではない。一夫一婦に子供で構成される核家族のあり方を根底から変えることが必要だ。核家族は障害者が生まれたときの負担が大き過ぎる。
普通高校を出て大学に進学した僕は知らなかったのだけれど、養護学校卒の知的障害・発達障害者ってルームシェアして寄り添うように暮らしていたりするのね。