発達障害をめぐる放言録(3) 発達障害と社会

世代ごとのアスペの違い

僕はバブル世代で高学歴でアスペっぽい方を見たことがありますが、極めてタチが悪いと思った記憶があります。また、彼らと同世代の方々はアスペ的なものを毛嫌いしている感があります。

アスペを嫌っている(ように見える)バブル世代が企業を動かすようになっていますから、いまは発達障害者にとって受難の時期と思います。

団塊の世代だと村落共同体的なものがまだ残っていた。村落共同体から外れた方々は、学生運動などでコミュニケーションを取っていた。だから団塊の世代のアスペというのは「田舎の偏屈な爺」であったり「理屈っぽいオッサン」であったりする。

時代はくだり、電化製品の普及による家事労働の減少も相まって、勉強をしているか漫画やアニメなどのファンタジーの世界に浸るかしているだけで大人にまでなれる時代が来た。発達障害者が周囲とコミュニケーションせずに大人までなる可能性が出てきた。

アスペは良くも悪くも時代の雰囲気を「真に受け」る。バブル時代のアスペは世の中学歴と金じゃみたいな雰囲気をもろに吸っている。このあたりが「バブル世代の高学歴アスペ」の特徴を形づくっているのかなと思う。(もちろんひとそれぞれいろいろあると思います。)

僕らの世代になると「バブル世代の高学歴アスペ」たちがやらかしてくれたおかげで、教育そのものが変わってきた。ただ発達障害という概念は広まっていなかったから「人の気持ちの分からない人」に対しては批判のほうが強かった。

少年期から「人の気持ちの分からない人」に対する批判が社会に満ちあふれていた僕らの世代の発達障害者は、必死で社会に適応しようとした。しかし耐えられなかった方々は「キレた」んですね。

一方で僕らが中学生のころにはインターネットが普及しはじめた。ネットを通じて趣味を同じくする仲間が密なコミュニケーションをできるようになった。発達障害者は孤独ではなくなり始めた。

以上。独断と偏見に満ちた「世代ごとのアスペの違い」でした。

日本の漫画と発達障害

日本の漫画は数々あるが、発達障害との関係で論ずるなら「ドラえもん」が一番良い。なぜなら精神科医が「のび太ジャイアン症候群」という本のなかで両名をADHDの特徴を持つと指摘しているからです。このようなマンガはほかにはない。

ドラえもんについては「超人的なヒーローではなくちょっとダメな主人公が共感を集めた」と言われる。すなわち、萌えやエロ漫画ではなく、むしろ一般的には健全とされるほのぼのした漫画のほうに発達障害者との親和性があると言えよう。

いま萌え漫画やエロ漫画を読んでいる層はむかしならアダルトビデオでせんずりをこいていた層である。彼らは普通の男子である。

発達障害との親和性から始まり、エロで一般人をひきこんだことが今の(同人)漫画のカオスさになっている。

山口ニ矢と山地悠紀夫の「冷静さ」

国会図書館山口二矢について調べていた。1960年に社会党の委員長を刺殺した右翼で当時17歳の少年。

山口二矢について調べていて印象に残ったのは、教師に反論するなどして「理屈っぽく変わった奴」と同級生に思われていたことや、落ち着き払った様子で警察の取り調べを受ける様子。

人を殺しておいて冷静でいられるというのは普通「異常な人間」であろう。しかしそこに政治思想が絡むと評価が変わってしまう。

強姦殺人の山地悠紀夫が冷静に犯行を語ったのも、右翼の山口二矢が冷静に取り調べを受けたのも、同じ特性に基づくものかも知れないという想像力が必要だ。そうした理解の上にこそ、人殺しは人殺しでしかないという断言ができる。政治思想によって評価を変えてはならない。

発達障害者と責任能力

広汎性発達障害の診断のある、殺人を犯した少年に求刑通りの5年の懲役刑だそうです。

僕は発達障害そのものは「心神耗弱」など引き起こさないと考えている。罪に見合う刑に処すべき。

刑事系の弁護士は刑罰を軽くするために発達障害者を馬鹿にするようなことをしている。発達障害は知的能力とは関係ない。犯罪を犯罪と認識する能力は備わっている。

触法発達障害者と「反省」

藤川洋子女史の新書を読んでいた。数十年前の事例。誘拐殺人を犯した少年が反省を求めた裁判官に「遺族の家に行って仇討ちされたい」などと答え、反省が認められず死刑になった事例が掲載されていた。

反省していても反省しているように見えぬ部分があるのはたしか。

強姦殺人をやって反省しないと言った山地悠紀夫はこれとはこれとは少し違う。「決断したことに責任は取るがあとであれこれ悩まない」という信念のもとに反省を見せなかったのではないか。それで「死刑でいいです」となった。これは確信犯的に反省を見せなかったのだと思う。

「決断したことに責任は取るがあとであれこれ悩まない」というのもそれ自体では妥当な部分があるが、やはり限度がある。世の中には、10人中10人が反省しろと思うような場面がある。そういう場面でそれを口にしたら袋叩きにあう。

豊川主婦殺人事件とアスペルガー症候群

アスペルガー症候群から犯罪に至るパターンは存在するし、それに言及することを差別としてタブーにする考えには同意できない。

豊川主婦殺人のアスペルガー症候群の少年については藤井誠二が書いている。しかし、何事も経験してみなければ分からない、という少年の信念に対して藤井は、他者の経験を積み重ねてきた近代の原理を否定するものだ、という。それはそれで観念的にすぎる理解と思う。

「何事も経験してみなければ分からない」という信念自体はそれほど奇異なものではない。しかしそこから「人を殺してみなければ人殺しの気持ちは分からない」と考え、実際に行動にうつすところにアスペルガー症候群的なものを感じる。

アスペルガー症候群の当事者であっても個々人で信念の体系は異なる。それゆえに発達障害そのものは犯罪を起こすものではないのは言うまでもない。

批判すべきは「アスペルガー症候群は人の心が分からないから人を殺した」とかいう、極めていい加減な解釈だ。