発達障害をめぐる放言録(4) 診断のない発達障害者としての私

独特な言葉の理解

僕の母親はわりあい教育熱心で、僕が幼児のころから知育のために簡単なパズルみたいなものをやらされた。それを通じて、母は僕の問題文の理解のしかたが独特である、ということには気付ていた。

幼児期のころ、星や丸などの記号を条件にしたがって並べ替える問題で、僕は星や丸の部分をハサミで切り取り『ならべかえ』はじめた。しかしそのパズルのようなものは冊子になっていて裏にも問題がある。母は《並べ替えた状態を書く》よう言ったが、「ならべかえる」とは、物理的に物を移動させる意味と思っていた僕は理解できず癇癪を起こした。

言葉を話せるようになったくらいのころから、母に「あなたは頭が堅い」「人の気持ちの分からない人になって欲しくない」と言われて育った。そして、7歳のときに父の仕事の関係で渡米し、現地校の教師から自閉症を疑われたが、検査をすり抜ける程度には成長していた。

脱走エピソード

自閉症児の脱走エピソードなどを読んでいるとまるで我が事のようである。幼稚園に上がる前まではふらっと消えて警察を呼ばれる寸前にまでなったことが2度ある。

まだ幼稚園にすら上がっていなかった時期。兄が通う幼稚園のイベントに母と一緒に行った。そこで母とはぐれた。それで勝手に家に帰ってしまったのだ。

後に僕は同じ幼稚園に通うことになるのだが、当時は兄が通うのみで僕自身はその幼稚園に1〜2回くらいしか行ったことがなかったらしい。僕がいなくなったことに気づき周辺は探したようだが、そこから1〜2km近く離れた自宅に帰ったとは思わなかったらしい。

たしか家には父親がいた。「ママがいなくなった」と言ったら僕を車に乗せて鬼のような形相で「ママがお前を置いてどこかに行ったんだな」と言った。車が出発する寸前に母が幼稚園から電話をかけてきてきて問題は解決。母は警察を呼ぼうと考えていたらしい。

母はどこにいるかは言ったはずだと言う。どうも聞いていなかったらしい。あと、母とはぐれたとは言え周囲にたくさん大人がいたのに何も言わずに勝手に帰ったところとか、随所にコミュニケーション能力の障害がみられますね。

僕は「ママがいなくなった(から帰った)」と説明できたわけだけれど、もしこれを発語に困難のある子がやったら何が起こったのか訳が分からないでしょうね。問題児として扱われていたかも知れない。

僕がこの脱走エピソードを通じて得た評価は問題児というよりは地理感、記憶力がずば抜けているということ。小学生になってからは、はぐれても戻ってくると思われていたようなフシがあります。

予定変更パニック

5歳くらいのころだったろうか。僕が幼稚園に行っている間に母に急用ができたことがあった。母は近所の知り合いに僕のことを頼んででかけた。

近所のおばさんは幼稚園バスから降りてきた僕に母が急な用事ででかけたことを告げ「おばさんの家にいらっしゃい」と言ってきた。しかし僕は「ママが帰ってくるまで待つ」と言い始めた。幼稚園児であった僕は合鍵など持っておらず家には入れないのだが、ともかく待つと言って聞かなかった。

困ってしまったのは近所のおばさんだ。その場に置いていくわけにもいかない。たしか母が帰ってくるまでの2時間か3時間、僕の自宅の周りをぐるぐる追いかけっこすることになった。

母が帰ってきて、近所のおばさんから報告を受けた。母は「そうだ、この子はそういう子だった……」とつぶやいた。それで母は僕に、これからもこういうことがあるからこのおばさんの家には行って良い、ということを説明した。それで僕は納得し、それ以降は問題なくそのおばさんの家に行くようになった。

いまでも急な予定変更はかなりのストレスになりますよ。

表情の理解とへらへら笑い

アスペルガー症候群だと他人の表情が理解しにくいなどと書いたものがあったけれど、僕の場合は漫画やドラマなどで記号化された表情を存外素朴に信じていてかえって過度に感情を読みすぎるきらいがあった。

僕が他人の表情から過度に感情を読みすぎていると気づいたのは他ならぬ自分の表情についての指摘からだ。僕は考え事をするときに笑みを浮かべることが多いのだが、必ずしも愉快なことばかり考えているわけではない。周囲から「何が面白いのか」と言われてきょとんとすることも多かった。

しかし考えてみると僕も他人の表情から過度に感情を読み取っているのではないかと思うようになった。創作物などで「『なぜか』涙が出る」といった表現は多々みられる。それで、表情だとか声色だとか涙が、表層意識とは別のところでも起こり得る反応であると知った。

雨の日の遊び

小学生の頃、雨の日に外で遊んでいた。雨水が流れる様子を見るのが好きで、排水溝の近くで ひ と り で 雨水を泥で堰き止めたりしていた。変な奴と思われていた可能性も高いが、楽しげな遊びに見えた人もいたようで、そのうち別の学年のグループに場所をとられた。

ぴょんぴょん、ゆらゆら

僕は言葉に遅れはなく診断もでなかったのだけれど、ぴょんぴょん跳ねるのと体を前後左右にゆするのはやっておりました。というか体をゆするのは現在でも毎日欠かさずやっています。

子供のころはテレビアニメの主題歌が流れるとぴょんぴょん跳ねていたし、それらを録音したテープでぴょんぴょん跳ねていた。しかし成長にともなう体重の増加でぴょんぴょん跳ね続けることに疲労を感じるようになり、次第に横揺れ(ロッキング)に変わっていった。

空想好きの少年

なんか1995年のことが話題になっているな。あのころ僕は小学生だった。『こち亀』が連載20年100巻を迎える直前で、Windows95によるパソコンブームを取り上げていた。

当時の『こち亀』はパソコンに通じた両さんが無知な部長や署長をコケにする内容が多かった。僕はあの頃のこち亀が一番好きだった。

そして『新・電子立国』も覚えている。たしか最初母から「あなたの好きなパソコンのことをやっている」といわれて途中だけ見た。そして中学生になってから技術の時間に見た気がする。書籍版も1巻と3巻を買った。小遣いでハードカバーの書籍を買ったのはあれが初めてだったと思う。

当時は「将来は起業してビル・ゲイツみたいになる」と言っていました。しかし数週間後には「政治家になって総理大臣目指す」とか言って友人から「訳わかんねえ」と言われました。

起業家になる空想、政治家になる空想、思いつくとそっちに意識がワーッと行っちゃう。いや、これはいまでもですが。発達障害まるだしですね。

まぁそういうわけで僕の香ばしさは筋金入りなんですが、当時は時代そのものに空想を掻き立てるような要素がありました。

注意力・集中力を維持することの困難

まぁ、今まで散々アスペ語りをしてきてこんなことを言うのはなんですけど、僕の場合、社会的な意味での困難を生み出しているのは注意力や集中力の問題です。ADHD。診断はないけど。

高校生の頃のこと。早稲田の理工学部に行った人に数学を教えてもらった。そのとき、「お前は俺より数学ができる」と言われた。問題を解いている最中に次々に別の解法を思いつくからです。しかし新しい解法を思いつくとそれまでやっていたことを忘れる。効率は凄く悪かった。

僕の学歴は、公表しているとおり、日本大学商学部中退です。周囲から頭がいいと言われながら、注意力・集中力を維持することの困難はすごくあった。

受験勉強をしていたとき、エスタロンモカ(カフェインの錠剤)を大量に服用して嘔吐したこともある。

あのころはADHDリタリンが処方されていたんだよなあ。。。精神科の受診を決断しておれば、違った人生になっていたかも知れん。しかし、当時はADHDについて「大人になれば治る」という記述があった。それが僕の受診を踏みとどまらせた原因のひとつ。

まぁ、今となっては診断をもらっても何の意味もない。ガードマンでのんびり生きますよ。

自殺を考えた時期

学生のころ、自分は社会に適応できず野垂れ死ぬからそうなる前に自殺しよう、と思った時期があった。

結局、自殺はできず精神科で神経性抑うつ症の診断を受けた。やはり「底辺で生きていくしかあるまい」という気持ちはあって、いろいろなバイトを経験した。

ヤマザキパンの工場とか、ヤマト運輸のお中元の仕分けとか。どれも些細なミスは多くて自信は持てなかった。で、最終的にいまのガードマンの仕事で落ち着いて今にいたる。いや、些細なミスがなくなったわけではないのだけれど。

僕はそれほど厳しい躾を受けたわけではないけれど、経歴そのものは加藤智大と似てるのよね。高校までは進学校を出てるとか、そのあとがパッとしないとか、自分でもできる仕事をと思って選んだ仕事が警備員だったとか、自殺騒ぎを起こしたことがあるとか。