自らの意識を実態のないものと捉える ──発達障害と般若心経

般若心経が説いている内容は真理だ。真理であるというのは、そこに価値判断は伴わない、ということである。
般若心経はあらゆるものが「空」であり「無」であると説く。これはともするとネガティブな意味に取られがちだ。生きることは無駄なことであると。しかしそれは一面的な解釈でしかないように思う。すべてのものが「空」であったり「無」であるということは、それが無駄であることとは違う。前者は真理であり、後者は価値判断である。
この世のすべては実態がないものであるからこそ、何かを恐ることもなく、自由に生きていくことができるとも解釈できる。生きることに絶対的な意味があるとするならば、これほど窮屈なことはないと思う。
般若心経の説く、すべては実態のないものであるというのは真理である。そうであるがゆえに、人はそこにどのような生き方をも投影することができる。

この真理は発達障害者を解放するものであると僕は信ずる。
般若心経は、自らの意識さえも実態のないものであると説いている。このことを意識することで、発達障害の傾向のいくばくかは改善されるように思う。
ここからは僕なりの般若心経の解釈を書いていきたい。
怒りや悲しみ、喜びなどで頭がいっぱいになったとしても、それは一時的なものだ。いつかは消えてしまう儚いものである。自分の意識さえも実態がないというのはそういうことではないか。
多動の傾向があって、何か目に入ったものが気になる。意識がそれにとらわれてしまうとする。そんなときに、それを打ち消せるのは、自分自身の意識が実態のないものであるというような考えではあるまいか。
また、世界は自分自身の精神によってしか把握できない。さまざまな器具を使った科学的な実験ですら実験結果を見ている自分がいるのである。意識の状態によっては事実を正確に認識することができなくなる。
科学的な事実を認識できないレベルに陥るまでに至らなくても、自分自身の周囲の人間関係をどう捉えるかというようなことについては、そもそもどのような解釈もできてしまうものだ。その解釈は自分の精神状態──実態がなく、さまざまな状態に変化するもの──に大きな影響を受ける。
そして、そもそも他者自体もそのような実態のないものであるし、そこから生まれる人間関係というものも実態のないものである。
自閉系の障害を持つものにとってこの世界は不可解なものである。般若心経はこの世がなぜかくも不可解なのかを説いているように見えるのである。

僕はもちろん精神医学に基づいたトレーニングが不要であると言っているわけではない。発達障害は、医者による適切な措置が必要な場合もあろう。
般若心経は精神医学に基づいたトレーニングとは別に、自分自身を、そして世界をどう認知するのかという基盤になるものであると思うのである。

そういうわけで

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