自己批判の足りない加藤智大の手記 「解」

ネットに対する無知・無理解


「なりすましに思い知らせるため」──加藤智大が語った事件の動機はひとことで言えばそうなる。この動機に違和感がある方もおられよう。しかし僕はこの動機そのものがまったくの嘘であるとは思わない。ネット上でのトラブルというのは、そのくらい激烈な感情を引き起こさせるものである。


僕の立場は明瞭だ。なりすましに思い知らせるために無差別殺人を起こすというのはありえる。しかしそうであるにしてもあの手記は自己批判が足りない。もっと深く考えるべきだ。


僕は加藤智大に対する怒りもさることながら、あのような書物を売って商売をする出版社に対する怒りがこみあげてくる。加藤智大の主張するところがどうであるという以前に、練られていないと思うからだ。あのような「下書きレベル」のものを出版するのは犯罪的であるとすら言える。


いったん文章をブログで公開し、世間の批判を仰いだうえであらためて思索を深めるということが必要だったのではないか。そのうえで出版された書物であったら記録として残す価値があったかも知れない。しかし、版元に原稿を持ち込んだ「加藤被告と関係のある精神科医」はそういう選択をしなかった。


今回出版された手記は、なりすましに思い知らせるためという核心部分の「心理的な動き」には理解できる部分もある一方で「ネットに対する無知、無理解」がそのまま残されているように感じられるのである。


具体例を挙げよう。以下は加藤智大の手記からの引用である。


もし私が人に相談していたなら、事件は回避された可能性があります。「掲示板で成りすましをされ、それを正当化されて、その怒りが抑えられない」と誰かに相談したなら、私などには思いつきもできないような解決方法が示されたかも知れません。極端な例では、掲示板の書込みからそれがどこの誰なのかを割り出すツールを教えてもらえば、私は大事件を使って心理的に攻撃、などという回りくどいことはしませんでした。そのツールを使って直接成りすましらのところに出向くだけです。


ネットに書き込んだ人物の特定は、プロバイダーに対する開示請求という法的な措置をもって行うものであろう。明瞭な違法行為でなければ難しい。もしプロバイダーや、あるいは相手の端末に攻撃を仕掛けて情報を抜いたら、それ自体が犯罪となる。またそれだけの知識をもった人がそうそう周囲にいるとも思えない。


したがって、加藤智大は未だにネットについての「マトモな」知識がある人に「相談」などしていない。しかしこれを以て相談すれば解決できたかも知れないなどと言っているところを見ると、もしかすると事件後に「掲示板の書込みから書き込んだ人間を特定すればよかったんじゃないか」などという提案をした人がいるのかも知れない。事件後に加藤智大と向き合ったのは警官や検察官、弁護士のほかには精神鑑定にあたった精神科医くらいしかいないように思うのだが、いったい誰だろう。

犯行予告は「懲役確定」???


こうした無知、無理解はネットに対するものにとどまらない。加藤智大は事件当日、秋葉原に来たあと、「体が勝手に」ブレーキをかけるなどして、3回ほど交差点付近を通過している。そこで一旦考え直すのである。しかし結局、彼は犯行に走る。


3回も失敗すると、頭の方が、トラックで人の中に突っ込むという考えに疑問を持ち始めます。

…(中略)…

もう後戻りできないところまで来てしまっていることに気づきました。掲示板に犯罪予告に見える書き込みをしていることが法に触れており、刑務所で懲役確定です。

…(中略)…

これらを天秤にかけた時、犯罪者に囲まれて数年の懲役を喰らったうえに前科持ちになって孤立している世の中に放り出されるより、少しの間刑務所で暮らした後に殺してもらえるほうがマシ、と思えました。


犯行予告で懲役が確定するという部分にかなり強い違和感をもった。威力業務妨害罪の法定刑を調べてみると「三年以下の懲役又は五十万円以下の罰金」である。脅迫罪などの罪でも懲役以上の刑しかないというものはない。それゆえに「懲役確定」などということはないのである。法定刑以外にも、検察官による不起訴処分というものがある。


体が拒否した段階で、警察に出頭し、土下座して侘びを入れていたなら、本当に懲役を喰らっていたかどうかは分からない。そしておそらくそれが「体が拒否した段階」で導き出しうるもっとも正しい答えだったろう。


もちろん犯行時点で加藤智大が予告しただけで懲役確定になると思っていたということはありえよう。しかし、そうであるならば手記のなかには「思い込みだった」という反省も書いてあってしかるべきだろう。しかしそうした記述はない。未だに、犯行予告が必ず懲役になるものではないということに気づいていないのではないだろうか。そして「それは思い込みだ」と誰も指摘しなかったのだろうか。出版前に原稿を読んだ者は何も突っ込まなかったのか? 疑問は深まっていくばかりである。


「おかしな認識で組み立てられた再発防止策」に「きちんとした反省」は感じられない


ここまで読んだ方は、僕が加藤智大や出版社の無知・無理解を指摘しているだけのように見えないかも知れない。しかしそうではない。僕は、加藤智大が手記のなかで明らかにした立場に全面的に寄り添って、それでなお「認識がおかしい」「そこに真の反省がない」と指摘するものである。


加藤智大は手記のなかで、再発防止策まで示すことがきちんとした反省になると考えていると述べているのである。いわく、事件に至ったさまざまな原因について触れているが、誰かのせいにしようとしているわけではない、と。それはそれで結構なことだと思う。しかしそうであるならば、再発防止策の前提となる認識がおかしいところがあれば指摘するのは当然だ。


僕はむしろ「体の拒否感」と対話すべきだったのではあるまいかと思うのである。加藤智大は、事件を起こすことを体が拒否した、なぜなのかは分からないと言う。しかし本当に体が何か言うわけではあるまい。脳の働きが体の感覚となってあらわれているだけであろう。無差別殺人事件を3度思いとどまらせた「体の拒否感」は、加藤智大の心の奥底に残された最後の良心だったのではあるまいか。もちろん、体の感覚に盲目的に従えというのではない。体の拒否感を振り切った「判断」があまりにもお粗末なものだったのではないか。僕に言わせれば、そこが核心部分である。


そういうわけで、再発防止策を言うのであれば、あまりにも「足りない」内容である。このような書物を売って商売しようとする精神科医や出版社に対する怒りはすさまじいが、加藤智大自身の印税は賠償に当てられるのだろう。それゆえに加藤智大に対する怒りはそれほどでもない──愚かではあると思うが。


加藤智大に言うことがあるとするならば「死刑になる前にもう1冊書きなさい。できれば別の出版社から」というようなことである。