いまさらながら人工知能ワトソンの動画を見ていた

コンピュータの処理能力の向上は人間の仕事を減らすというのは言うまでもないことだが、コンピュータの能力を過大評価している人間が多いんじゃないか。IBMの人口知能ワトソンがクイズ大会で勝利する映像をいまさらながら見ていて、そんなことを感じた。


僕も人工知能ワトソンを見ながら「凄いな」とは思った。それは自然言語の処理能力である。司会者が「口頭で発した」質問文を解析し、回答「らしきもの」を見つけてくる能力。それは確かにすぐれている。そしてそれを医療に応用すれば症状から病気を探してくるソフトができるだろうし、司法に応用すれば判例検索を行うソフトが開発できるのだろう。


だが、コンピューターが人間に取って代わることなどあるのだろうか。どうにも機械のことなど分からない人が騒いでいる部分もあるように思うのである。


まずおさえておきたいのは、開発者は開発を通じていかに人間の頭脳が優れていることを感じたと話していることだ。コンピュータが人間に取って代わる日というような空想に耽っているのは、開発に関わっていない外野の人間である。


僕の身内にもロボットの研究開発に携わった人がいるのだけれど、やはり人間がいかに精巧にできているのか、ということを言っていた。その身内が言うには、人間は数百万年かけて進化してきたのであり、自分が数十年研究したところで追いつけるわけもない、と。


そして次に、ワトソンの「誤答」はワトソンが自然言語を理解していないことを示している。アメリカの都市名を問う質問に対して、カナダの都市名を答えたというのだ。そのときには失笑が起こったという。これは知識の誤りではない。問題文の文意自体を理解していないから起こることだ。開発途中では、ファーストレディーの名を問われているのに大統領の名を答えるといった間違いも起こしているらしい。


こんなものに過剰な期待を抱いてしまうのは空恐ろしいことだとすら思う。ワトソンがやっているのは、あくまでも回答「らしきもの」を探してくること。そして開発者たちは、それが回答と一致する確率が高くする作業をしただけだ。


考えてほしい。私たち日本の大学入試でも「論述式・記述式」のほうが「短答式」よりもレベルが高いものであると理解されているではないか。ワトソンは短答式のクイズで高い成績を収めた。そこに本当の意味での言葉の理解は必要ない。


そして最後に、コンピュータが自然言語を理解するためには、単に処理能力や記憶容量の向上に留まらない変化が必要だということだ。


たとえば「やわらかい」という言葉を人間どうやって理解しているだろうか。人間がものに触れると、皮膚に張り巡らされた膨大な数の神経細胞が反応する。そして人間はそれらをパターン化し、あるものをやわらかい、あるものを硬いという言葉に置き換えて理解している。それだけではない。人間は実際に手を動かしてものを触ることもできる。


皮膚から脳に情報が送られるのが「入力」であり、脳から体を動かす信号が出るのが「出力」だ。人間の知能は、人間の体と脳の間で「入力」と「出力」を繰り返すことによってできあがっていく。


そうであるならば、人間と同じような形で言語を理解するには、人間と同じ体を持つ必要があるのだ。ところが残念なことに、人間の神経細胞なみの数のセンサーを人間の大きさのロボットに詰め込む技術はまだ存在しない。人間とまったく同じ動きをするロボットも存在しない。コンピューターは、人間と同じように経験し、学ぶことができないのだ。


コンピュータに必要以上に恐れを抱くことないと思う。自然言語による判例検索が多少高度になったところで、実際の司法手続きをコンピューターが行えるわけではない。なにより、法廷に持ち込まれるトラブルを理解するのに必要なのは、人間として生きてきた経験ではないのか。


人間らしく日常を生きることがかえってコンピュータと人間の違いを際立たせる。そう思うのである。