「世界で最も醜い女性」ジュリア・パストラーナは不幸だったのか

容貌のインパクトの強さゆえに、その生涯を客観的に見ることができなくなってしまう。「世界で最も醜い女性」ジュリア・パストラーナについての記事・論評を見ているとそんな難しさを感じる。顔が厚い毛で覆われ、歯茎や唇は分厚い。類人猿を彷彿とさせるその姿は、女性であるか否かという以前に人間として不幸であろう。だがしかし、その人生を客観的に考えてみよう。それほど不幸ではなかったのではないか。


まずなにより留意しなければならないのは、彼女は子供をもうけているということである。彼女は出産に耐えられずに死んでしまうのであるが、死ぬ直前の彼女は果たして女性として不幸であったと言えるのか。


彼女は死の間際に「私は幸福のうちに死にます。私は充分愛されていましたから」と言ったという。この言葉を強がりという風に受け止めたり、あるいは彼女を利用して金儲けをした興行師の夫の愛を信じていた愚かな女性と受け取ってしまうのは誤りだと思う。子供を授かったのであるならば、彼女が夫から「愛されて」いたということに嘘はないと思うのである。


第二に、見世物となる人生はそれほど辛いものなのだろうか。むろん醜さを見世物にしていたのであれば、彼女の夫レントは人間の尊厳を踏みにじったという意味で許されるものではないかも知れない。だが、彼女は「醜さ」だけを見世物にしていたのではない。彼女は歌やダンスが上手であったというのである。仮に観客が醜さをあざ笑うために彼女を見に来るのだとしても、歌やダンスを披露する自分に尊厳を見出すことはできると思うのである。


以上、ジュリア・パストラーナの生涯について考えてみた。その容貌があまりにインパクトがあるがゆえに、「不幸だ」と決め付けてしまいがちである。しかし、世の中にはもっと不幸な人がいると思う。たとえば結婚も子供もできそうもない俺とか。


【参考】
見世物にされた「世界で最も醜い女性」に学ぶ、本当の“美しさ”とは? -NAVERまとめ
http://matome.naver.jp/odai/2136080514106105201