フランスの大学入試「バカロレア」  全国民に課す小論文試験

フランスの大学入試では「バカロレア」が高校卒業のような存在として機能しているのではないか。読売新聞の記事を読んでいてそんなことを考えた。


バカロレアの「合格」に必要な水準は決して高くない。単純に数字で比較することはできないかも知れないが、フランスの人口は日本より少ない6500万人であるにもかかわらず、日本のセンター試験の受験者数である55万人よりも多い70万人が受験しているのである。そして、国民の62%がバカロレア資格を持っている。


そう考えてバカロレアの「哲学」の試験を見ていくと、同試験を過大評価することもなく、かといって過小評価することもなく、適切に評価できるのではないだろうか。


第一に、バカロレアの哲学の試験は、優秀な人間から普通の人間までを評価することができる幅の広さをもった問題だと思うのである。


たとえば2013年には「労働によって得られるものは何か」という問題が出題されたという。一見すると問いそのものはそれほど難しくないように見える。日本人が思いつきで答えることもできるだろうし、それをもって簡単だと考える人もいるようだ。


だが、読売新聞のインタビューに答えたフランス人の少年の感想は違う。「労働によって得られるものは何か」という問いよりも、同時に出されたスピノザの『神学・政治論』について論じさせる問題のほうが答えやすく、実際にそれに答えたと言うのである。そのフランス人の少年はスピノザのテキストを勉強していたからだというのだが、そもそも日本の高校生は学校教育のなかでスピノザの『神学・政治論』を学ぶことはない。


けだし労働をテーマとした問いに答えた哲学書古今東西に山のようにある。それらを踏まえたうえで自分の意見を論じさせる問題なのだろう。日本人でも思いつきで空欄を埋められるが、哲学の問いとして答えるのであれば、学んだ全範囲の知識を動員して答案を書かなければならない


第二に、バカロレアの哲学の問題は、全国民に対して問うものとしてもふさわしい。「人は労働で何を得られるか」のほかには、「信仰は理性に反するか」「国家がなければ人はもっと自由になるか」「人は真実を探求する義務はあるか」というような問いが並ぶ。どれも人が生きるうえで考えていかなければならない問いばかりである。


第三に、採点基準が試験官の主観に左右されることも日本の高校卒業と並べたくなる理由のひとつである。


いったい何を言っているのか分からないかも知れないが、話は簡単だ。日本の制度では高校を卒業すると大学入試の受験資格を得ることができるが、この「高校卒業」までのプロセスで教師の主観が作用することは多々あるだろうし、そしてそれが内申点となって大学入試に影響を与えることもある。


私はこのことを、バカロレアの「哲学」で試験官の主観によって点数がまちまちになることとならべたいのである。バカロレアの「哲学」の採点基準はずいぶんあいまいな部分もあるようで、それをもってフランスはいい加減な入試を行っていると思う人もいるかも知れない。しかし日本の高校卒業──学校によって学力がバラバラである無意味な資格──と比べると、全国統一の問題でやっているだけいくぶんマシだとも思えるのである。


以上、高校卒業レベルの全国民に課す試験という視点で「バカロレア」を俯瞰してみた。


【参考】フランス…哲学も問うバカロレア
http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/jijou/sekai/20130215-OYT8T00338.htm